THE 1行雑学 #1 〜日本史編〜

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はじめに

受験で日本史を選択しているあなた。暗記科目が苦手だとつらいですよね。

この記事では、そんな「日本史の勉強がつらい! 面倒くさい!」という人でも、「えっこんなことがあったの!?」と興味がわくような、日本史の1行雑学を紹介します。

戦国の武将や幕末の英雄の意外な事実を知ったら、日本史の勉強も楽しくなるのではないでしょうか? 既に日本史が好きな人は、もっと好きになるかもしれませんね。

それに加えて、ただ年号と事件を黙々と暗記するよりも、さまざまなエピソードを一緒に聞いておくと、より印象的に記憶できることでしょう。

それでは早速、今回は日本史にまつわる5つの1行雑学を紹介していきます。

1. 「鳴くまで待とう」の家康は案外短気だった!?

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」の歌で知られる家康。(ちなみにこの歌は作者不詳です。後世誰かが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑の天下取りに対する姿勢を表現したものと言われています)
天下を獲った時、家康は還暦を超えています。
それまで信長や秀吉の下で仕えてきたのですから、「鳴くまで待つ」という辛抱強さにも納得です。
しかし、そんな家康も「案外短気だったのでは?」と思ってしまうような事件がありました。元亀三年(1572年)、武田信玄と対決した三方ヶ原の戦いです。
家康は、自らが籠城していた浜松城を通り過ぎて三方ヶ原へ進軍していく武田軍を見て、我慢できずに背後から急襲しようとしました。
しかし、これは家康を城からおびき出そうとした信玄の罠で、徳川軍は待ち構えていた武田軍にボロ負けしてしまいます。
家康ほどの戦略家なら、武田軍の計略を見抜くこともできたはず。
それでも城から討って出てしまったのは、目の前を通り過ぎていく武田軍に辛抱ならなかったからかもしれません。
天下を獲った家康にも、案外短気な面があるのでしょう。

↑しかめっ面をしているため、「しかみ像」とも呼ばれます。後年、三方ヶ原における大惨敗の自戒とするために、逃げ帰った自らの姿を描かせたものとも言われています。
(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』徳川美術館蔵)

2. 真田幸村はイジメられっ子だった!?

「日本一のつわもの」と称され、現代でも人気が高い戦国武将・真田幸村。
大坂冬の陣では、劣勢にも関わらず忠義を貫き豊臣方につき、いっときは家康を追い詰めるほどの戦いぶりだったと言います。
しかし、実は青年時代、兄の信之が家康の重臣だったことで、大坂城内ではイジメの標的になったこともあったそう。
何故幸村が大坂城にいたかというと、秀吉への服属の証として、真田家当主の息子である幸村は大坂城に人質として逗留していたのです。
イジメていたのは、主に秀吉の側室・淀君の側近たち。
幸村が戦いに関してなにか意見をしても、すべて無視していたそうです。
勇猛果敢で知られる幸村にもそんなことがあったとは、驚きではないでしょうか。

(『真田信繁/幸村肖像画』上田市立博物館所蔵)

3. 日本最初のクリスマスは山口県で開催!?

クリスマスといったら、今やみんなが盛り上がるビッグイベント。
しかし、元はと言えばキリスト教のお祭り。
日本ではどこから始まったのでしょうか?
それは、意外なことに戦国時代の山口県。
天文21年(1552年)、戦国大名・大内義隆の領地であった現在の山口の地で、日本最初の教会堂の建設が許可され、クリスマスの日に神を讃えるミサが執り行なわれたのです。
もちろん、クリスマスと言っても現代日本とは違って、ツリーを飾ったり、御馳走をたべたりするものではありません!


義隆はキリシタンであったわけではありません。
キリスト教布教の許可と引き換えに得られる、外国との貿易利益を狙っていたのです。
その後毛利元就が支配を広げるまで、山口はキリスト教布教の中心地として知られていました。
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